立ち位置として、自分自身もガン見後入り+対策デッキという手法を潔しとしない。ここを明確にしておいたうえで論じていきたいと思う。
<某blogの引用文は、当事者の要望により削除。概要として伏兵をセットしたデッキをガン見後入り+伏兵対策をしてきた将官への諦観と、その将官に対して致した思いが綴られていた。>

実際、このエントリを立てられたblog主さんには何の感想も持ち得ない。むしろ、こういう出来事があったよ─的な立ち位置なんだ、と解釈している。
疑問に思うのは、コメント欄にたむろしていらっしゃる「卑怯だ」「言語道断」といった内容の意見を残している方々である。
別段、個人攻撃をするつもりではなくて「ガン見対策を絶対悪とする総意的な空気」に対して、激しい違和感を覚えるんですよな。

例題1)武田の鉄砲隊に討ち果たされた兵士は「卑怯だ!」と叫びながら斃れた。この「卑怯」は正しい?
例題2)「やあやあ、我こそは…」弓矢でブッスリ。これは卑怯?

キリがないのでこのぐらいにしておきたいんですが。
「ガン見後出し不可」とか「対策デッキは厨」とかいうのは、それ自体じつに高邁な思想ではあるんだろうけども、しかし一方でそれはローカルルールでしかない、という現実が置いてけぼりなように思う。
それを「思想」であり「背骨」とするまでに昇華するんであれば、未生流だとか立川流だとか、西田式だとかオギノ式だとかを立ち上げて、思想を明文化して残すべきなんだろうし。
明文化されているから初めて照らしあわせる事ができる。照らして初めて、それが正道か邪道かがハッキリする。
それもないままに「少将たるもの云々」「恥ずべき行為」とか言われても、当の本人も微妙にモニョってしまうんでは?やっぱりそれらは「俺ルール」の域を出ないんじゃないだろうか。
その「俺ルール」に乗っかってこないのを「少将としての格に相応しくない」と断じられても、じゃぁ少将って何よ、という堂々巡り。
「少将としてあるべき姿」と言われても、戦功を積んだら勝手になるもんなんだし、拒否権無いし。「あるべき」と言われたって下手な人は下手だし、上手い人は上手いんだろう。
「少将」というものに、自分の思い描く「かくあるべき」という理想像を押しつける。
それはいい。
ならば、今すぐ下手クソで下品とされる少将どもに英知を授けてみせろと。それが出来なければ、やっぱり戯言でしかない。
むしろ、ゲーム内の階級に人格を付随させる事こそナンセンスなんだと思う。
クソ蛙を見てみろ、っての。

先に、戦争での事例を敢えて喩えに出してみた。勿論、GCBは戦争ではなくゲームである。
だからこそ、何でそこでの発想を転換出来ないのか、とも思う。
度々例示して申し訳ないのだけども、ガン見後出しを良しとせずに負けた、と。
しかし、それは単なる「1敗」であって、それ以上でも以下でもない。単に「ガン見後出しをしないと決めている自分が、ガン見後出しに抵抗を感じていない相手に負けた」。それ以外に、何の意味があるんだろうか。
現実の戦争であればどんな手段を用いても勝てば官軍だし、負ければ一族郎党犯され誅戮されるんでしょうが、こりゃぁ只のゲームであって。
しかも、ガン見後出しは駄目ってのは現状、公式なルールに則った不正行為ってワケでもない。
「私はやらない。でも彼はやる。その彼に、善戦虚しく負けた。」
これは、騎士道精神を全うしたという意味においてその1敗は価値ある1敗、と捉えられなくもない。すくなくとも大勢をしてギャースカ騒ぐのはナンセンスだ、という風に感じる。

最後にもう一つだけ、お付き合い頂きたい。
麻雀を嗜まない方の中には、あのルールは全国共通でしょって認識を持たれている方もいらっしゃるでしょうが、それは間違い。むしろあれほど地域によってルールが違う競技も珍しい。
ピンヅモ不可、食いタン後付けに始まり、赤牌花牌、ドラの数え方、「アリス」などのチップが発生する場面、七筒を「鉄砲」に見立てたルール、割れ目などなど。究極には、役の種類まで違ったりする。
自身、一,五,七,九索,三元牌の中で出来た対々和を開かれて「紅孔雀!役満っ!!」と言われた日には、何の冗談かと思った。しかし後々に調べてみると、それは別名「紅一色(フォンイーソウ)」とも呼ばれるれっきとした地方役であって出鱈目ではなかった。
それ以降、知らない人と卓を囲む時には多少しつこいまでにルールを確認するようになったんですがそれはさておき。
GCBも数度のバージョンアップを経て、様々な遊び方を我々に提供してくれてきた事は論を待たない。
しかしそれは一方で様々な価値観を供給した。
更にはそれぞれに一理も二理もあるバックボーンも与えてきた。
楽しみを分かち合えるのは、同じローカルルールを共有する者同士だけ。そんな時代にすでに差し掛かって来ているのではないか。
戦略、戦術という個に始まり個に収斂するような事象に傾倒するよりも、いかに楽しむか、と云うことをそれぞれが考えないといけないのだろう。
そう思う。

今宵は此処まで。