《一時閉鎖宣言》に思う

いやまぁいいんだけどさ。
幸せ配達人♪サンのblogが閉じられた件。最近netブラブラしてなかったのが悔やまれるんだけども、一部の記事に対して『アンタ、キッチリ裏取って書いてんの!?』というコメントが付いていた件の流れなのだろうか。

→アクセス主義思想に対抗する反論・弁解の為
→情報社会で情報を発信する大切さの重要性理解(停止することによる「ある事柄」情報配信停止の不便性)

というのが閉鎖の理由だそうだが。
まぁ1番目のはこの際いいとして。ウチみたく回転数云々を抜きにしてwebリソース無駄に消費して書きたいことだけつらつらウダウダやってる所ではなく、幸せ配達人♪サンのトコは見てもらい、考えてもらう事が至上命題だったりするサイトだったと言えなくもないので。管理人本人がどう思っていようが、あそこがそういう性質を背負っていた事は間違いないだろう。他者に『アクセスが欲しいのか?』と追及されたところで、そういう必要性があるんだから仕方がないんではないか、と思った。この際いいとして、と言いながら言及が少し長いか。

で、2番目の理由について。
情報社会での『発信元』は責任を感じて発信すべきである、と。いやまぁそりゃそうだ、仰る通り。
しかしここでちょっと考えてみては頂けんだろうか。
ワシらブロガーを僭称する輩は、それなりにソースやら言及について『文責』を感じて書いている。金使って取材しているマスコミとは違い、思った事をしがらみ無く書ける環境がblogじゃないんだろうか。金を使って取材してないから、そのソースは他者に依存したりするワケなんだけども発信するオピニオンはワシだけのモンであって、その他の誰のモノでもない筈である。その気概を『文責』というんじゃ無かろうか。その『文責』の後に続くのが『文責@尉遅皇』であったり『文責@朝日新聞』であったり『文責@幸せ配達人♪』だったりするワケですな。
だから幸せ配達人♪サンが発信した情報が仮に間違ったものであったとしても、「それが幸せ配達人♪クオリティ」なのであって。例え誤報があったとしても「それがタス通信クオリティ」であったり「それが共同通信クオリティ」なのであって。
第一報が誤報であったとしても、共同通信が廃業すると言った事があっただろうか。金もらって情報配信するのが仕事であっても「間違いは訂正すれば良い。間違いは謝罪すれば良い。口を閉ざす事は無かろうに」というのがワシの雑感。つか、批判した人は「幸せ配達人♪」サンの書いた事は何でも正しいとして、普段から鵜呑みにしてるんだろうか。たかが一般人相手に何を求めてんだ。


謝罪して済む問題では無かったりするモノもあって何でも一括りにして言う気は無いんですが、今回のはその類の話なんだと思う。どうなんだろうか。