『亡国のイージス』観てきた、の記。

亡国のイージス

亡国のイージス

観たのは先週なんだが一応。
しかし今年観た映画の中で抜群に面白かった。原作を読んでなかったのも良かったのか。
自衛隊が反思想家とテロを起こす話。あらすじとかは、これから観ようと思ってる人にとっちゃぁ興醒めになるでしょうから割愛。
上下巻に分かれていた話を2時間に凝縮した割には、凄く登場人物が魅力的に表現できてると感じた。で、終盤には魅力溢れる人物達が『機動戦士ガンダムSEED』の最終回ばりにバッタバッタと死んでっちゃう。
死ぬのは死ぬんだけども無駄な死が一切ない。一人の死が、誰かに少なからず影響を与える。影響を与えられた人は、やっぱりそれで自分の考え方なりを変えたり折れたりしながら生きようとするんだけども、結局は死んじゃう。『この世の中にはね。逃れられない死などないのだよ、関口君』と言わんばかりに。


そこで思った。今の世の中、人の死が繋がって行かないからオカシくなってるんじゃないかと。


葬式、というのが好例なんだけどもあれは『ついこの前まで生きてたのに、という名残る気持ちを払拭させる民族システム』なんだとワシは思っています。式が粛々と進行する間(はざま)で『あぁ、ホントに死んじゃったんだよね…』という気にさせる。アレが無いと『ひょっとしたらその辺からひょっこり顔を出しゃしないだろうか?』と思えてしまう。死人に未練が残る。未練が残ると、碌な事になりゃせんのですよ。
式次第の中で、故人の過去に思いを馳せる。人間の一生に軽薄なものがある筈も無く、思い起せば自分の身になる事が多々あるし、自分の来し方・行く末に馳せる思いも浮かぶ。死んだら自分はどうなる?なぁんて事もたまに考えてみたりする。
実はそういう機会は日常、所謂『ケ』にはなかなか無くて『ハレ』の世界にしか無かったりする。*1
その『ハレ』に触れる機会が我々にはいくらほどあるか。親戚縁者といっても、遠方ならば弔電だけで済ませてしまえる。下手をすると出席するのは1親等がせいぜいだろうか。
人の死に近くなければ『死』に無思慮になりがちである。


『死』と書くと非常に大上段の構え、って感じがしますが実はそうじゃない。
退職、転勤、引越し。web上に限ればblogやHPの閉鎖、管理人氏のハンドル廃棄、引退。ゲームの退会…。これらはみんな『小さな死』だったりするんですな。
死んだらどーなるこーなる、という部分に疎いほど、身の回りに起きる小さな死にも無頓着になりがちなんではないかと。だから平気で人の嫌がる事が出来る。他人を思いやれない。自分を省みることが出来ない。リアルでもそうなんだから、況やWeb上をや。

まぁお盆の期間も過ぎてしまいましたが、たまには先祖の墓参りでもしてみては如何でしょうか。



今宵は此処まで。

*1:ハレとケの話はhttp://d.hatena.ne.jp/ucchijou/20040524/p2で多少触ってますのでご参考までに。