主張と倫理

死亡した人間の胎児と鳥の死骸を合体、大問題に
グロ注意。シャレとかで無くて。
この世の中には人間がゴマンと居るワケで、当然その個々人全てに何某かの『主張したいモノ』『かく或るべき』が、それぞれベクトルは違えども存在するワケで。
形だけでも『表現の自由』を謳うこのご時世、何を開陳しようが道義上とやかく言われる筋合いは無い。原則論だけど。
しかしその『主張』の種類によっては、出し方やらに段取りを踏まなければならんものも少なからずある。町中を素っ裸で闊歩して『セックスフリー!セックスフリィィィィー!!』と大声張り上げた所で、ブタ箱行きになるのは目に見えている。言ってる内容は例え理解出来るものがあっても、これじゃぁ眉をひそめられて仕舞い、であるんですよな。

『死』と『死』を繋ぎ併せて新しい『生』を産み出す。その主張は凄く理解出来るし、『死は終わりでは無くて、その死から生まれるものも又多い』という部分にも共感出来る部分は多くある。
しかし…!なのだな。
このオブジェ(オブジェ、と呼ぶのは非常に憚られるんだけども)は、それ自体が持つインパクトが強すぎる。人に対して何かを『訴えすぎる』んですよ。主張したいことの以外にも、饒舌過ぎるから騒ぎになる。
遍く表現者というものは、捉えられ方にも充分配慮する責任がある。それは読み手の勝手でしょ、というのはやっぱりどうかと思う。
私がこう思って作ったから、受け手であるあなた方はその通りに解釈すべきだ。穿った解釈をして作品本来が有する表現力を蔑ろに云々、というのは理屈が通っているようで、実は詭弁なんだと思う。
有名な話だけども、『火垂るの墓*1』の原作者・野坂昭如氏の娘が国語の宿題を出された。
火垂るの墓 [DVD]
で、題材に父親の話が使われてて『この時作者は、どのように思ってこの情景を描写したのか答えよ』とあったのでそのまま父親に
『お父さん、この場面を書くときに何を考えていたの?』と聞いたところ『締め切りに追われて必死だった』と。で、そのままを解答したらバッテンくらったらしい(笑)。
まぁこのように、作者が魂込めてない所に勝手に理由付けやらを求めるのはどうか、という為に引き合いに出した話なんですが結果として、その部分に対して受け手が得る解釈が表現物全体に対するベクトルを損なわない事。これが真の表現なんだと思う。

で、ここから話がズレるのか話が本題に戻るのか、連みの親玉『にぃや』氏の話。
諸説あれども、時空の代表者と称される立場ならばそのプレイスタイルは初心者の模範とならざるを得ない。

行為の良し悪し、が判断できずに尚且つ自身の言動に何ら客観性を伴わない連中が『表現者』であるワケが無い。客観的視点から考察されない見解、というのは則ち独善的な振る舞いと言わざるを得ない。だから、本来はそんなセンスの無い連中に対して矛先を向けるのは実に虚しい行為であって。


なので我々は倣わぬ様に、と『アレは違うんだよ』という論説を固めて、他の人達が「この人がやってる事は正しいの?どうなの!」と考えるキッカケを作ってやれば良い。繰り返すけども大事なのは、自分で考えさせること。考える材料を与えること。
批判の対象者に対しては後ろ指さしておけば宜しい。だって馬鹿だから話がわかんねぇんだもん。


途中、書いてて自分にも耳の痛い部分があったけども、たかっちさん、これで返答になってますかね?


今宵は携帯から更新なのでそろそろ腕が痛くなってきたから此処まで。

*1:2005.8.22誤字修正。原作愛好者の皆様には申し訳ありませんでした