未完成

先日の更新で、ワシにとってのウェブサイト保持=ツルミのみに特化するプレイヤーへの反駁用根城である事は述べた。
では携帯三国志内に於いて、ツルミはイカンのか?という部分について補足したい。
結論からすると、全くもってそんな事は無い。このゲームはシステム内において交流を深め「提言」コマンドを用いて結束力を数値化する事によって「強さ」を得る事が可能となる。加えて、このゲームについて全く初心者である場合、特定の人物に師事してそのプレイスタイルを真似る事から始めるのが最もシステム理解を深める近道であるに違いない。しかしそれはあくまでも導入部分に際しての事であって、いつまでも馴れ合いよろしく固定面子で集合している面々については、何故馴れ合う事の愉しさですら外部に向けて発信出来ないのか、と問いたい。

それはつまり、自らの行為を「特定コミュニティの中でのみ通用する馴れ合い」である事を標榜しているに他ならない。つまり自分たちのコミュ二ヶーション能力は、間仕切りの内側で、他者の視線を遮断された部分でしか発揮できないという自己分析が出来てるからこそそれを外部に発信しない(出来ない)と解釈して良いんでは無いか。
ならば糞である。
初対面の人間へのメールの語尾に「ましゅ(ます)」「でふ(です)」を付ける。いわば、自らが暮らすコミュニティ外部の人間がそれを見て、どう思うかに思いを致せていない好例であると言える。

馴れ合う事自体には、直接的な悪は潜んでいない。むしろ善であろうと考えるんですよ、ワシ。人々が一様に嫌悪感を抱くのは「排他的なコミュニティ」に対してのみである。それは謂わば行きすぎた馴れ合いの姿であり、そこには原初持ち得た「馴れ合いの善性」はいずこにも求め様がない。

ワシが目指す馴れ合いとは「初見であれ、常連であれ気軽に声を掛け合える環境」であります。以前、rgyさんのサイト内での雑談で「カウンタはサイトの経験値」という話があった。これに付随して「常連客の質は管理人の格」である事を付け加えたい。管理人は、客を選ぶ権利がある。来て欲しく無い人の為にわざわざサイトを開けている馬鹿は居るまい。この界隈の理論については、rgyさんが自サイト内で詳細に述べてらっしゃるので参考にされたい。