結局は批判文

ここでは大層な口の利き方をしていますが、ワシのNet歴っちゅうのはそう深いもんではありませんでして。Netデビューは、かつてlycosが健在だった頃(黒犬のアレです)、そこのNet麻雀に入り込んだのがきっかけでしてね。当時、ちょうど買収されるやの何だと言われていた矢先でして。結局、最後にはプレイヤー同士のいざこざも相俟って閉鎖の運びとなってしまいました。

別段、諍っていた両勢力どちらにも同意しかねる部分があったんで、どっちつかずの立場を保っていたつもりでしたが、Lycos麻雀解散後にワシが『○○勢力の急先鋒』的な位置づけだったらしいという事実を明かされて結構ショックだったりしました。振り返りたくない、苦い思い出ですな。
しかし、当時にイラストレーターの卵の人に描いて貰ったワシのプロフィール用イラストなんてのを未だに持っていたりもしますが。
どっちやねん、と。



斯様に、失敗の記憶と浅い実体験しか持ち得ないワシですが、ちょいと思うところがあって『Net上でのコミュニケーション』っちゅう部分に言及してみたい。

VODAFONEコンテンツゲームの『三国志』内で一時期盟主と仰いだ蒼輝君(現・緋翠君)が、自分のサイトで非常に興味深い文章をUPしていた。

http://sakura.sarasou.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=sefilia

携帯からの閲覧者向けにワシが勝手にtext化したものがコレ


ご一読頂けただろうか?

まぁ最初の一文が全てであり、且つ纏めであるワケですが。よくNetは『手軽なコミュニケーションツール』という文句がくっついてるんですが、んなもなぁ幻想です。画面の向こうには、常ににこやかで友好的な相手がいるワケでは決してない。現実社会ならば、自分の発言に対する反応がリアルタイムに受け取れますから『繕い』や『補足』なんて事も出来るんでしょうが、Netでは果たして掲示板の無言がホントの無言なのかどうか、なんて解りゃしないんですよ。見てないかも知れない。見ているが発言を控えてるだけかも知れない。機会を伺ってるのかも知れない。あいた口が塞がらないのかも知れんし、呆れてモノが言えない状態なんかも知れない。そんな多岐に渡った感情の起伏に対して、どんな言葉を掛ければコミュニケーションが取れるんだ、ちゅうの。

余談ではありますが【言葉を話す】というのは、語源として【言(こと)】の【葉(は)】を【話す(放つ)】という意味だそうです。心の内を、葉の裏にしたためて弓につがう(葉書、という語源もこの辺りらしい)。ファンダメンタルな部分を大事にすると、つまるところ会話という物は遍く『戦闘』であるんだと気づかされる。紡ぎ出した言葉は、全て弓につがえて相手に向かって射出される。畢竟、それにより傷つき倒れる人もいるだろう。しかし、言葉とは常にそういう物だ、という事を自覚して生きていたいもんである。

万人を癒すことの出来る言葉なんぞはこの世に存在し得ないのだから。
しかし『今晩、ウチ来る?』は万人を癒すよなぁ?あ、童貞には苦痛なのか。それと女性もダメなのか。むぅ……。



閑話休題。オホン。

で、あやふやさが現実社会のそれに一層拍車の掛かる世界で、言葉という刃物を振り回す行為。空気のみを媒介するだけでも全てが伝わる事のない物を、線に託して100%伝わるかっちゅうと無理な話です。しかし、そこでなおNetにしか出来ない多様な人種との交わり、意見交換を求めて切磋琢磨していくのが楽しい。

日常をOfflineのままで暮らしていたのでは到底出会うことの叶わなかった職種の方と、一つの下らないトピックについて意見を戦わせる事が出来る。未だ見ぬ視点からの意見。それに拠る自己研鑽。それが本来のNetの醍醐味なんでは無かろうか、と総括してみる。



ある御仁が『掲示板では邪魔が入るので、メールにて当事者同士で解決するのが一番』とおっしゃった。

当事者間の思い入れだけで話を解決して、何のメリットがあるんだよ。最大のコミュニケーションツールを指して『荒らしの介入する、粗悪なツール』って謳うなら何のためにサイト開いてんだ。顔文字書いて喜んでんならチラシの裏に書いてろ。ウダウダと日常報告するだけが掲示板なら、それは日記だろ。意見を交換するのが掲示板。ワシはそう思う。