僕には分からない

ラプラスの魔』、という話をご存じだろうか。最近のニュースを見聞きするにあたって、ひょいと思い出したので書いてみました。人気PCゲームにもなった事のある話なので、ひょっとしたらご存じ無い方もいらっしゃるかとおもいまして一応リンクをば。非常に丁寧に解説されています。

http://www.apg.jp/iBM/rGM/bb-pub/Kf-laplace_n.html

解説サイトを探してココに行き着いたのでありますが、それよりもシュレーディンガーの猫の話が面白くてついつい読みふけってしまいました(笑)。まぁ乱暴に要約してしまうと、古典物理学の考え方では世界で起こるすべての事象は、計算に拠って予測することが可能だ、って事です。この理論にワシが出会ったのは、確か山本弘氏が書いたライトノベルでした。題名はズバリ『ラプラスの魔』。内容は、PCゲームの世界を舞台に描いた小説であって単体の物語としても、結構読み応えのある内容であったと記憶しています。


人間関係を考えるに当たり『相手は一体、何を考えているのか』を推し量ることは困難です。てか確実に思い遣る事はまずもって不可能でしょう。思春期に陥りがちな『対人関係の悩み』『思い通りに行かないもどかしさ』『心と身体の成長度合いの乖離』など、一概に括って解決策を述べられない事象に対して、ワシはこの理論を持っていたが故に非常に楽にこの時期を乗り越えられていた気がします。【人の思考は、脳の化学反応の結果である】という非常にシンプルな捉え方。また、神格的存在は宇宙外部に存在する、という下りも当時のワシには非常に呑み込み易かった部分がありました。加えて『神』とは万能に何かを為し得るものでは無く、ただ『多くを知っている存在である』という点も。フラットですよね、関係が。

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京極夏彦の作品の中で『呪い(まじない)とは必ず効くものである』というくだりがよく出てきます。例えば注連縄(しめなわ)。地方の夏祭りの季節には、割とアチコチで注連縄を張り巡らされてある景色に出会います。アレも、その注連縄を潜ったり或いは引きちぎったりしても何も害悪は無かろう、ってのは頭では解っているんだけども何となく気になって避けてしまう。これも一種の『呪い』の効果であります。または地面に単純に「×」印が書いてある場合。これも、何の意味かは解らないが何気にそれ以上先に進むのが憚られる。これはある程度文化土壌を共有していないと発露しないもので、アメリカ人は注連縄を見ても平気で踏み込んでしまうでしょうし、何も知らない幼児なんかは「×」印を平気で突っ切るでしょう。

こういった『禁忌』の思想、或いは『神聖にして侵さざるもの』ってのは、情操教育には非常に有益であると思います。そういう前提無くして、今の『何でもあり』の世の中に生まれた子供たちは非常に不幸なんじゃないだろうか。皮膚感覚で『悪』や『罪』を捉えられないんですからね。

勿論、そんなモノを持ち合わせていない大人も山ほどいるワケですが。