最近少々おむずがり。

【憲兵ら、虐待コンテスト 米紙が軍調査報告入手】

共同通信は、したり顔で何を糾弾したいのか。もしや、終戦後のジュネーブ協定に則った行動を米兵に期待してるのか。だったら阿呆である。大体、戦時中よりも戦死者の多い現状を『戦後』と言うならば、そっちの方がおかしいのでは無いか。軍紀を粛正して、一滴の血を流さずに敵方を制圧した『無血革命』なんぞは既に神話である。勿論「すっころんで鼻血くらいは出したろうに」みたいな下世話な揚げ足取りではなくて。

日本古来連綿と続く『祭り』の思想に『ハレとケ』という概念があるのをご存じだろうか。古くは農耕社会であった日本は、一年というサイクルの中で常に同じ行動を強いられた生活を行う。春には田植えを行い、夏には天候に気を配って農作物の成長を祈り、秋に収穫して寒い冬を越すために蓄えを行う。このサイクルは残念ながら彼らが息絶えるか、土地が息絶えるまで延々と繰り返される。一人の人生すら、その巨大なサイクルのなかではたった1スパンでしか無い。これでは、参ってしまう。今年は昨年の今とは違うとはいえ、マクロ視野から見れば誤差の範囲でしかない。それを子々孫々に渡って続けろ、というのは酷である。

そこで人々は『祭り』を生み出した。この『祭り』というのが『ハレ(晴)』であり『非日常』である。対義語としての『ケ(穢)』とは終わり無き『日常』である。更に掘り下げれば、死を魂(コン)と魄(ハク)に分けて考える魂魄思想にも行き着くワケだが割愛する。つーかワシもあんまり難しい事を書き過ぎて少々クラクラきてる。

で、何が言いたかったかというと、戦争とは『ハレ』である。我々は『ケ』の中で暮らしている。日々行われている祭りに対して、例え虐待コンテストを行おうが死体の山の横でピースサイン(人が死んでてピースってのもブラックユーモアなんだが)で写真に収まっていようとも、それは『ハレ』の中にあって『ケ』を排除する作業の一環でしかない。新嘗祭を見て「日常と違う」と目くじら立てるのもおかしかろう、と。古代の祭りには『ハレ』を彩る演出としての生け贄の風習なんぞ、洋の東西を問わず珍しいもんでもない。至る所でそれはあった筈だ。

真に問われなければならないのは、その『祭り』の是非である。なんでこのクソ忙しい中、わざわざ日本人が中東くんだりまで出掛けて祭りに参加せにゃならんのか。その阿呆らしさを、もっと直截的に問わにゃならんのだろマスコミは!!!と思う次第。

こんなのは普通じゃない!って今更何を言う、馬鹿。

そういう意味では捕虜になったあの五人も『ハレ(晴)』の参加者であって、それぞれ個人にどれだけの罪が問われるべきなのか、は正直疑問である。ただし、祭りの乱痴気騒ぎに紛れて非常に恥ずかしい行為をしてしまった、という自覚が無い事については大いに糾弾されるべきだと思う。ここは『ケ(穢)』の世界であるのだから。