【近鉄鈴木貴久コーチが急死】
朝一更新の今日は、一野球坊主に戻らせて戴く。よって一人称も「僕」に改めるのでキモいかも知れないがご容赦戴きたい。近鉄が『猛牛いてまえ打線』というニックネームを恣にした時期の主軸打者であった。僕が一番忘れられない近鉄のラインナップは
- (二) 大 石
- (左) 新 井
- (指) ブライアント
- (一) 石 井
- (三) 金 村
- (右) 鈴 木
- (中) 村 上
- (捕) 光 山
- (遊) 真喜志
である。とにかく打つ。
球界屈指のアンダースロー・阪急ブレーブスの山田久志が出てこようが、ロッテオリオンズの鉄人・村田兆治が出てこようが、日本ハムファイターズの若きエース・西崎幸広が出てきても、ひとたび興が乗ればとにかく打つ。ただし、西武ライオンズの三本柱・工藤公康、郭泰源、渡辺久信には滅法弱かった。でも、そんなムラっけが魅力の一つでもあり藤井寺球場や日生球場に足を運び続けたものである。
近鉄バファローズの名シーンと言えば、以前にココで書いた「対ロッテ戦 10.19ダブルヘダー」や「対西武戦 10.12ダブルヘダー」での渡辺久信vs R・ブライアントの四打席連続本塁打などを代表に上げる方が大半であると思う(てか、知ってる人は極少だとは思うが)。
しかしそういう派手な一面とは一見無縁に、1987年からコツコツ4年連続20本塁打以上を放つ活躍を見せたのが、鈴木貴久選手であった。好投手にカラッキシ弱く二線級投手は際限なく打ち込む、という悪癖のあった近鉄のなかで、あのイチローを育て上げた元祖天才・新井や怪人・ブライアントのバットがクルクルと空を切る場面で、いとも簡単にスタンドインさせるようなシーンがよくあったと記憶している。
当時スターネス性を有した甲子園優勝投手の金村や貴公子・村上、ラスト・サムライ石井などの「野武士野球」と評された個性的な面々に囲まれる中でも、その「野武士精神」を遺憾なく発揮して活躍した名選手であった。
本塁打を量産して現役を引退した後は、生涯近鉄を貫き通し打撃コーチに就任してこんどは和製大砲の量産に力をそそいでいた。享年40才。陳腐に言い古された言葉であるが、早世が惜しまれる。勿論望まれた死などこの世には存在し得ない訳だが、それにしても、である。
かっとばせ!貴久!道産子パワーだ貴久!
合掌。