「国民総幸福量」という言葉があるらしい

http://dic.yahoo.co.jp/newword?category=2&pagenum=21&ref=1&index=2006000067
なんでもブータンで提唱された考え方だそうで、簡単に言うとGDPの「P(product)」が「H(happiness)」に置き換わったもの。『経済の豊かさが国民の豊かさには繋がらない。経済の豊かさは国民の幸福への手段の一つであって、決して目的ではない。』という話なんだと。
世界的にも注目されている考え方で、日本もシンポジウムにひょっこり参加していたりする。
さて、そんなのがすんなり導入できるか?というと大多数の意見通り、その道は平坦でない。
第一に「じゃ、幸福ってなによ?」という壁にぶち当たってしまう。
ブータンと日本はその宗教観・気候・自然環境に類似点が多い(参考http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3:wikipedia)。
しかし、その基準はあくまで「昔の日本」である。
大前提として、憲法上で「信教の自由」を認めている日本と、実質的には国民の大半がチベット仏教を信仰しているブータンでは、幸福の尺度というものをまとめきれるかどうかという部分で大きく差がついてしまう。
要はあの宗教でもこの宗教でも、追い求める幸福は一つでは無かろうという話になるんだと思う。思想統一ならばいよいよ私たちの出番ですな、とあの宗教団体がモソモソするのだけはご勘弁願いたいのだけども。
究極に追い求めるカタチが各宗派・流派でバラけるのは理解できるが、でもひょっとして「信仰している事への満足感」というのは一定の基準で測れるんではないだろうか。
頼ること縋ることで満ち足りる気持ちは等しく、同じベクトルであるハズ。そりゃ理想的にはその宗教の数、多いよりもどこかが頭を取って束ねる方が良いんだろうけど…ってだからお前のトコの話をしてるんじゃないんだからモソモソすんじゃねぇっ。
実際、心を豊かにする仕事は、国家が担うべきなのか?宗教家が担うべきなのか?科学者か、相場師か、建設業者か?
少なくとも国民の仕事ではない、と果たして言い切れるんだろうか。
我々が「幸福である」と感じる基準は、大抵自分の中にはなくって外部に起因する。
「我も良し、他人(ひと)も良し。我は他人よりちょっと良し」が、幸福を感じられる一番いい塩梅なんだと思うんだけど、他人の暮らし向きやら懐具合が判然としない事には、相対的にしか自分の幸せ具合が測れない国民が日本人なんではなかろうか。だとすると、幸福の基準を作ってやらないといけない。
いや、ここは電通さんの出番でも無いんですよお引き取り下さい。
日常生活においての価値基準創造、というのは果てしなく気の遠くなるようなチェック項目が羅列されるに違いなく、果たしてその網目で事実を捉えきれるかというのも疑問だが、先に冗談ぽく述べたように「幸福の定義を規定してしまえば、案外簡単に数字は上がるんじゃね?」と官僚辺りが普通に言い出しそうな気がして怖い。
GNH最高水準はロシアと北朝鮮です、ってのは嫌な冗談だ。
斯様に、個人任せ・国任せでも幸福レベルの追究というのは困難っぽい。
じゃぁ、民意の代表たる民間企業ならば可能なんだろうか。
普段の生活の中で過剰に娯楽を追い求めるのは、職務に奉じる為に削られてしまった時間をいかに圧縮して取り戻そうか、という意識の表れと考える事もできるワケで。じゃぁ一日の大半を費やす仕事の中に「幸福」を感じる機構を埋め込めば、意外に好結果を期待できるんではないだろうか。
あるいは、自社が提供するサービスや商品が世間にもたらした「幸福度」を数値化するのは、それほど難しいものにはならないのかもしれないし。
日の丸推奨の「サブリミナルCM」が横行したり…というのは考えすぎなんだろうか。うん。
つか、根本的に「モノに溢れた社会で暮らしていると、一時的な至福は得られるかも知れないが、継続的な至福は遠くなってしまう」んだと思う。
「モノの不足度*1」という物差しで比べると、日本はブータンに遠く及ばない。
今の日本は菊正宗の法則で「便利なモノを手に入れると、さらに便利なモノが欲しくなる…」的に欲望は雪だるま式に増えていく傾向にあり、そういう意味での「不幸を生み出す永久機関」としてはすでに様式美さえ漂う現状にある。
寂れた喫茶店ののれんにある「吾唯足知」の語彙が幸福の原点であるとするならば、日夜ものづくりに明け暮れて深夜残業を厭わぬこの生活は一体何なんだろうと思えてしまう。
そんなことをグダグダと考えた。

今宵は此処まで。

*1:何をもって足りているかという議論はこの際おくとして