多様化という言葉が呑み込むモノ


先日見た映画の予告編にて、北斗の拳が映画化されると初めて知った。まぁワシらぐらいの年代ですと意外に『人生のバイブルは北斗の拳です』と普通に言い切ってしまえる人に出くわす事がある。イッちゃってるなぁ、とは思わない。むしろ純粋に『漢(おとこ)』を極めてみれば至高の完成形がケンシロウだ、という理屈は頷ける。
しかしやっぱり、ワシのご贔屓は『サウザー様』だったりします。拳王様ですら恐れる聖帝様、最強。

『蟻一匹の反逆すら許さん』
『愛ゆえに苦しまねばならぬのなら、愛など要らぬ!』
『退かぬ!媚びぬ!顧みぬ!!帝王に敗走は無いのだ!』

などなど、手元に資料が無いので随分とうろ覚えではあるものの、最強にして随分人間臭い悪役も居たもんだ、とでも思って頂ければ幸い。
はてさて最近流行りの漫画に出てくる主人公、こういった『臭さ』を持ったキャラクターは稀有なんでは無いか。
デスノート』の夜神月とか『魔人探偵ネウロ』の脳噛ネウロとか、濃くてなおかつ悪役臭ただようヒーローというのは居るのだけれども、聖帝様の持つ『強さ』の、対局に存在するような気がしてならない。うまく言えないけども『敬愛する対象』として不適切というか。暴力的なシーンやらグロい表現が恣意的に封じられている昨今のメディア事情と、あながち無関係では無いんだろう、とは思う。

この辺りで、聖帝様のような強引で荒削りではあるものの説得力のある台詞を吐くキャラクターが絶えて久しい、と気づいた。読者の斜め上、ではない遥か上を行く存在。
劣等感を徒に刺激しない、まろやかな等身大のキャラクターが万人にウケる時代にあって、敢えてコクのあるキャラを立てるのは暑苦しいのだろう。或いは『強さ』の意味が一義的では無くなって来ており、より多くのシンパシーを集めきれないんだろう。


かつては共通認識が成立していた『強さ』の定義のゆらぎもさることながら、人を殺してはならん、という定義も今は曖昧になりつつある。
確かに『べき論』を用いずに【殺人の悪】を説明するのは困難であったり。

自分がされたら?
駄目なものは駄目
などという説明はもはや陳腐化していて、一定の説得力すら持たない。
自分あっての人、であり勿論他人あってこその自分である。他人を殺す事は自分を殺す事になる、という論はmongkangさんがhttp://d.hatena.ne.jp/mongkang/20060313で挙げていたナチュラルボーンキラー・宅間守にとっては殺人を肯定する意味にもなりかねない。
斯様にして、時代がもてはやした『多様化を受け入れる』というやり方は、我々から『心意気』をも奪ってしまったのではないか。

他人から何かを享受した。それに対し、何かを返そうとする。別に何かを返さなくても享受したものはあるべきものとして有る。無くなりはしないのに、である。これはひとえに『心意気』の成せる所。
他人が自分を殺さないでいてくれる。だから自分も他人を殺さない。
生かされてるのだ、と宗教めいた言説を取るまでもなく、これは『心意気』の範疇だと思う。なんでこんな事まで大上段に構えて論じるのか。論じなければ、意識をすり合わせられないような部分なんだろいか。よく解らない。


『殺してはならない』と感覚的に理解出来る事無く殺戮に手を染められる人間が、我々に残すものは一体何なんだろうか。

ひとつ、あるとすれば『死は、遠い国での戦争や飢餓によってのみ起こるものではない』と云うことを知らしめてくれる事だろう。残念ながら我々は、失う事でしか気づけないのだ。
しかし治安・医療・制度の整備により、現代人は限りなく永遠に近い寿命を勝ち得た。反面、死は遠い日の花火となってしまった。
果たしてそうだろうか?


駅のホームで電車待ち、紫煙をくゆらせ一時の憩いを貪る。
その一瞬と死を分かつのは、後ろに立って同じく電車を待っている人が『つい』背中を押してしまうか否か、それだけだったりする。

他者の生殺与奪に疑念を抱けない者の存在は、そんな無秩序な死すら肯定してしまえる。


地球が一つの生命体であるとするならば、我々は皮膚を埋め尽くす寄生虫と換言できる。
『つい』背中をポン、と押してしまえる人たちは病んだ地球が産み出したキラーT細胞なんではないか。そんな事を最近思った。


今宵は此処まで。