エピローグ

拝啓

陽春の候、貴殿にはますますご健勝の事とお慶び申し上げます。

さて、戦禍に巻かれて延び延びになっておりました花見の件、ようやく時間が取れそうです。
戦場を飛び回り、密書を抱えて千里を奔り、敵陣へ斥候に出かけたあの頃が今では逆に懐かしく思える程です。

さて、貴殿が気に掛けて居られた我が戦友達の消息ですが、実は殆どが噂程度のものにしか過ぎません。
もしあの最後の戦、撤退が速やかに済んでおれば。
追撃の手を上手く交わせておれば。
戦争が終わった後も、その事ばかりを悔いて居ります。

風の噂によると、戦後処理は鍾ヨウ殿が一手に引き受けられて領地を配分したという事です。
陣幕でもいかんなく発揮された内政の手腕はいささかも衰える事無く、各国から不満が湧いたという話は寡聞にして聞きませんでした。

12/13 最終勢力図

      O O
      /|/|
     O-O-H-H-H
    / | | /
  M-O-O-H-H-H
  | | | | /|
 O-O-O-O-H-H-L
 | | /|/| /|
 P-P-O O-H-+ |
    | |/|  |
    O-P-L-L-L

H:のんの 9都市
L:紗紀斗 4都市
M:トキオ 1都市
O:尉遅皇 14都市
P:ジャンヌ3都市


周瑜殿は故郷・揚州廬江郡に錦を飾り、生家で塾を開講したという事です。
しかしほどなくして建家から出火し、今は再建の金策に多忙な毎日を過ごして居られるとか。ひょっとして、例の悪い癖が出たのかも知れません。

曹仁殿と李典殿は、武勇を生かして街で剣を教える道場を始めたそうです。李典殿が道場主兼経理曹仁殿は師範代として。
道場の名声は広く知れる事となり、その誉れは私の住まう陋巷にまで聞こえる程です。
しかし縁とは奇異なもので、その道場に初めて訪れた道場破りが周泰殿であったという噂を聞いた時には、我々の縁は腐れ縁であったのだなぁと痛感致しました。

夏侯淵殿は、戦を求めて傭兵稼業で生計を立てているのだとか。何でも『人に仕えるのは金輪際お断りだ』と。初めて仕えたのが『あの男』では、そう思うのも無理もない事ではあります。

公孫サン殿は世事から一切身を引き、北平の奥地に草庵を建てて悠々自適の隠居暮らしを送っておられるそうです。あの鬼神が如き猛将を一気に隠遁生活に引きずりこんだのも、『あの男』の持つ魔力なのかも知れません。

その『あの男』の消息ですが、これだけは杳として知れないそうです。
先日、偶然酒場で当時の城門の衛兵に出会いました。
聞けば、各地から早馬で飛んでくる戦況で我が軍優勢と知るや、そそくさと裏門から出て行ったそうです。
衛兵が声を掛けると『ワシゃ晴れがましい舞台が好かんのでな、しかもちょっと人いきれで気分が悪い。夜風に吹かれて来るでな、あとは頼んだぞ
よ』と言い残したまま、行方が知れないという事。
本当に無責任極まりない。しかも『夜風に当たる』といって出て行ったのは真っ昼間の事です。
終戦まもなく、獄に繋がれた私ですらこの程度の情報は仕入れられたのです。
史書編纂という難儀に臨もうとされる貴殿の方が、逆にお詳しいのではないかと思うと汗顔の至りではありますが、これが私の知る全てであります。


汗顔ついでにもう一つだけ。
あの男の事を史書に載せるのは、お止めになった方が宜しい。
取るに足らない人物であった、というのがその大きな理由でありますが、あの男が常々申して居った台詞が
『歴史に名を残すような輩はその足元に積まれた、歴史に刻まれない死屍累々に対してどう申し訳を立てるのかね、と常々思うんじゃよ』
というものでした。こんなへそ曲がりの為に貴重な余白を割く必要はありますまい。


では司馬遷殿の今後益々のご活躍を祈念しつつ、筆を擱きます。
敬具

 王威