Web上でいがみ合う人たち

先日『VODAFONE LIVE!三国志』のOFF会に行って来たワケなんですがね。
結論から言いますと、開始30分で飛ばしすぎた所に敗因があるのではないかと自己分析。ピン芸人が15分も持たせるのは凄いと、改めて感じた次第。いや、芸人じゃ無いんだからそんなに頑張らなくとも良いワケですが一応。
でまぁ30人も人が集まれば、Web上で何やかやと騒がしかった人も出席されてるワケでして。その中で実はアレとアレは過去にバトルの実績がとか、アレはリアルでアレの会社の部下でですな、とか色んな話が酔漢の耳に入ってくるんですよ。まぁ好きなんですがね、その手の話。


ところがどっこい、俯瞰するにバトルの最中とおぼしき人でも何とはなしに楽しげに会話していらっしゃる。酒の魔力とか、ソーマのもたらす昂揚を利用したのはゾロアスタ教で、とか酒神ディオニソスのご加護は偉大である、とか別に大した喧嘩じゃ無かったんじゃね?とかいう野次馬的かつ神学的な考察をしようというんじゃ無いんです。つか知識不足でそんな事は出来ないし。うん。

まぁ結局は顔を突き合わせてみるとそんなに話の解らないヤツじゃ無い、ってのもあるんでしょうしそれこそ酒の席です無礼講、今日は飲め飲めという流れになる事もそりゃああるんでしょう。対話ってのがWebでの文字の応酬よりも数段優れたコミュニティツールであるのは周知の事実だし、顔を合わせばそう無体な事も言えないってのもあるし。

だったら何でWeb上では侃々諤々とやり合えるのか?という部分。

人は皆、必ずどこかが狂っているのだと、そう思う。
「常識」という概念は、人の平均値のようなものだ。
ある分野について、それに関わる全ての人間の、丁度真ん中を取ったものが、多分完全な「常識」なのだと、当方はそう、考えている。
けれども、人は皆、どこかが狂っているから、完全な常識の範疇に常に存在する人間は存在せず、そもそもどこか狂っているが故に、その常識に「主観」という偏向がかかる。
だからその歪んだ常識同士は、必ず衝突する。
それが「すり合わせ」で済む事もあれば、正面からぶつかる事もある。
それは不可避な事だ。
その自分の「不完全な常識」を「完全に」説明できる人間が、そもそも存在しない為に。
常識というのは、その人間がそれまでに獲得してきた全ての集大成だ。
その身に起きた、何もかも全ての破片によって、それは形作られる。
そしてそれ故、常識というものは「直感」と言い換える事ができる。
むしろ、「常識」とは「直感」を理論武装したものでしかない。
だから、常識は他の常識とぶつからざるを得ない。
直感は、他者のそれとは絶対に相容れないものである為に。
この仮定からすると、しばしばblogのコメント欄が炎上しているのを目にするが、これはそのエントリでの主張がそれを閲覧している大多数の常識、即ち直感と合わないために起こっていると考えられる。
それは、そのblogの管理者の感覚が、大多数の感覚と著しく乖離している事に他ならない。
如何なる手段を講じようとも、炎上する要因、即ち世の大多数との著しい乖離を消し去る事は出来ない。それは、その書き手自体に属する要因だからだ。

歌う脳髄さん『常識と炎上するblog』より抜粋。


これを踏まえて、ネットログの応酬とリアルでの対話の何が違うのかという部分についてウダウダと。先ずは『視覚要素により、人はある程度その人の人となりを理解出来る(理解した気になれる)』という点について。

ある程度社会でこなれた人であれば、相手の喋り方や仕草、言葉の言い回しなどでその人格を測ろうとする。これが出来なくば商売なんて出来んワケでしてね。どの辺を切り口にして話せば食い付いてくるのか、冗談は苦手っぽい様子だな、学はそれなりにあるのか…ETC。
で、その手探りの中で自分と相手の『落としどころ』を無意識に探る作業が始まる。頭の良い人には、二言三言を話すだけでその話の帰結点が見えている、という事が良くある。つまり話があらぬ方向へ脱線したり、或いは途方もない誤解の上に会話が成立していて、結びの時点で『え、そうなの?』というどんでん返しの無い会話をする人がその部類に入る。非常に会話がしやすいし、流れも乗っかっていけばいいので非常に楽な話し相手となるんですな。頻繁に《閑話休題》を差し挟むワシには到底、届かない境地であります。


さてさて、この場合に『落としどころ』を見据えたコミュニケーションが取れる【対話】はすでにお互いの妥協点に向かって話が転がっているのであり、非常に見やすい。しかしネットログの応酬はそうはいかない。
相手の知識教養を探ろうにも、漢字は変換ボタンを押せば出てくるので知識量を示す指針にはなり得ない。回りくどい言い回しや慣用句などの正しい使い方は調べればすぐ解るし、教養が或る程度身に付いている人でも誤解・誤用はあり得る話である。強いて挙げれば句読点の打ち方ぐらいか。それでも、それがおかしいからと言ってその人の何が解るかといえば心許ない。それは事実。
ま、成田クンの場合は明らかにおかしいしひらがな率が格段に高いので、変な人なんだろうけど。


加えて、文字化した意思表示は非常に伝わりにくい。これは、日常会話での表情や身振り手振りがコミュニケーションの中で如何に重要な役割をしているか、を再認識させられる好例であります。
伝わりにくいからこそ、それこそ句読点の打ち方ひとつにしても気を遣わなければならんって事です。それだけで文章の読みやすさは見違えるようにに変わるし、敢えてひらがなで書くか漢字にするか、はたまたカタカナで書くかによってその表現するモノは随分違ったりするワケなんですが、その辺りを別段気にも留めず推敲もせず、ダラダラと文字垂れ流して『交流、交流♪ミャハ★』ってやってりゃ理解の齟齬も出るっちゅう話です。


しかしタチの悪い事に、垂れ流してる本人は『存分に頭を使ってる』とい自負があるという部分で、blogのコメント欄炎上やら掲示板紛争という事態に陥る。で、ファーストコンタクトで既にズレているにも関わらず、そこからズレを修正せずにお互いが自分の言いたい事やら主張したい部分だけを強調して話せば、炎上も止む無し。
それは約束された結末だと言えるかも知れない。


で、Web上で何某かのサイトを運営されている諸氏に自戒を込めて申し上げたいのが『批判的な意見こそ、二度三度と繰り返し読んで頂きたい』という事。
自分に対して棘々しい語句が並べば、瞬間湯沸かし器よろしく一気に血が滾るのはよく解る。事実ワシもそうなんですよな。某サイトで管理人日和な閲覧者による

『ああいう批判的な言葉を発する人って、いつもスキを伺ってるんですよね。おぉこわw』
『「呉れてやる」って、誤変換だよね?読めないんだけど(爆)』

とか。

→手前ぇ、どこナナメ読みすりゃそんな結論出て来んだ、あぁ!?何か、明き●か、文●か?ちったぁ全文最後まで読む癖をつけろこのド△△!!
→自分の識字率の低さを棚に上げて、批判の口は達者だな。いいから手元の辞書めくってみろや、な?
めくったか。そこに載ってる事を百遍読んでみ。読書百遍義自ずから現る、だ。読んだらさっさとドモホルンリンクルを一滴づつ見守る仕事に戻るんだ!


というドス黒い言葉を辛うじて呑み込みながら、二度三度繰り返して読む。これだけで随分違うんですよ。あぁ、この部分は正論だよな。でもこの部分は断固、容れられん。みたいな部分も出てくるんですよ。
もちろん、繰り返し読むたびに目の前が真っ黒になってきて更に怒りが倍増するタイプ。はっきりいってこういう人はネットに向かない。批判された事がすでに怒りの焦点なワケで、その内容が正であれ誤であれ最早関係無い。ただ単に自分を批判した相手をやり込めたい、やり込めたいと思ってリアルの生活にすら支障の出るタイプ。
炎上するblog群を見ると、どうもこのタイプが多く当て嵌まる気がするんですよなぁ。

因みに、こういう手合いは怒りの矛先があらぬ方へ向き、巨大掲示板に夜中の3時から延々「苦しめないで」「こんなツライのに何で解ってくれないの?」「殺してやる!」(以後リピート)を400レス分ぐらいに書き続けるパワーがある。そんなパワーがあれば、何で文章を中立的視野で読んでくれんのかね?という気にならいでも無いが、出来ないんだからしょうがない。文字の裏には様々な人がいるって事をよく知らないと、やっていけないんですよな。



本来は、中傷されようが晒されようが嘲笑されようが、平気な顔で
『ちょっと宜しいでしょうか…?』
と挙手出来るようなタイプでないと、管理人としては難しいんでは無いかと思った次第。
つまり理想の管理人像は深キョn(ry




今宵は此処まで。