『荒らしはスルー』は万能な手段か?

ネタ元:ACT-9.COM

先日、上記ネタ元サイトさんを眺めてて見つけた某サイト。以降『ウォッチフォルダ』にぶち込んで生温かく閲覧させて頂いてましが結局、巨大掲示板某スレッド住人の大量流入により健闘虚しく轟沈。

ここで住人の攻撃対象がリアル小学生に向けられた事への非難やら、ブサイク(あくまで個人の主観に基づく)な写真をこと誇らしげにupするリアル小学生の勘違い加減は如何なものか、っつう所に焦点をあてるんでは無くって標題の《『荒らしはスルー』は万能な手段か?》という思いを致した事について少々ブツクサとやってみたいんですよ。


某サイトのコメント欄を延べ1週間程度遡って読むと、7割荒らし・2割応援カキコミ(空気の読めない阿呆含む)・管理人のレスは1割程度、といった内訳ですかね。7割を占める荒らしは、そのまま荒らしなのでこの際は置いておくとして問題は2割の応援カキコミ。

『荒らしは無視して楽しい話ばっかりしましょ♪ミャハ★ミ(意訳含む)』

という部分。で、そういうアンタはどこから荒らしでどこから箴言であるのか明確な識別基準を持って言ってるのか?と問いたい。
飛躍して結論づけるならば、明確な基準なんてありはしないんですよ。大抵の場合。大型掲示板特有の言葉使いをしていても、まともな意見は散見された(縦読みは除く)。しかしそこまでも『荒らし』と括ってしまって良いモンなんだろうか?と思う次第。つまりごく単純に『心地よいカキコミ・レス=応援』『嫌な気分になるカキコミ=荒らし』ではココで度々言及している成田武雷庵氏とさして変わらない。箴言、苦言まで『荒らしはスルー』というスローガンを適用し、脳内削除してしまっては元も子もない。『気づき』の機会がどんどん失われていくんですよ。そうして『可愛いね(はぁと)』『いつも見てます(何か絵文字)』『ココ大好き捏(ねつ)♪』などの翼賛コメンツだけが残る「北の国から 2005・核保有宣言」のあの国と大して変わらないサイトが誕生する事になる。


で、以前歌う脳髄さんがおっしゃってた『嫌なら見るな』というフレーズをココで適用して良いのかどうか迷う。
具体例を挙げて言えば、この物言いは間違ってる!として抗議するコメントを残したとする。そこでそのコメントがサックリ無視されてあまつさえ『皆さん、荒らしはスルーでつよ!(`・ω・´)シャキーン』なんて書かれたら、ワシなら滾(たぎ)る。血が。

ワシの考えとしては、荒らしと誹られようがまずは自分の立ち位置を明確にする事。自分のエントリでも良いし、相手のコメント欄でも良いし。管理人は、チラシの裏に書いてるんで無くweb上に文章を晒しているという事の意義(作用と反作用)をとくと弁えた上で、批判は批判と受け止める。ココで『嫌なら見るな』を使うのはおかしい。改善すべきと解ってるなら、恥ずかしいとか体裁が、とかは抜きにしてそれはやっぱり改善に着手すべきで。ワシも先日キャプ画像をプロフィールに使ってる事を指摘された過去があるので、この辺は自分で書いてても耳が痛い。

サイトの管理者が、常に無個性で有り続ける事なんぞ出来はしないと思うんですよ。ボランティアで情報垂れ流して文句も言わず、みたいな宮沢賢治の詩集に出てきそうな管理者が居れば教えて頂きたい。個性があるからこそ、きら星の如くサイトがあろうともその一つひとつに意味があるワケで。しかしその個性について閲覧者が一石投じる事は良いし、サイト管理人も何でもかんでも自分に不利益な書き込みを『荒らし』扱いするのは管理者としての資質を問われる。閲覧者は、それらの対応を見て『今後も閲覧する』か『二度と見ない』かを決める必要がある。
ダラダラと批判を続けるのは、自分の意見が汲まれるまでは納得できない、とかそういう意味合いにおいては『イタい管理人』や『荒らし』とさほど違わない。

以上の理論に基づき、ワシは上記の某サイトを『二度と見ない』。管理人が小学生であろうが総理大臣であろうが、自分の中に需要を感じなくなったサイトを見る必要性は全くない。なんでサイトを見るのに『ココの管理人は小学生だから、この言葉遣いは仕方無いよね』などとフィルター掛けて見にゃいかんのだ。だったらその労力を別のサイトを見る為に充てます。その方が生産的だし。



今宵は此処まで。