『馴れ合いについて』に再度トラバってみる、の巻

rgyさんの所から名指しリンクを頂戴しておきながら、反応せねば名折れ。

過度の馴れ合い、即ち互いが互いを賞賛するのみ、という状態は、その気持ち悪い程の緊密さが批判をある程度自動的に圧殺し、また自動的には圧殺されなかった批判を、数を持って圧殺する。
それは中学、高校でしばしば見られる、教室の隅でいつも固まっている、仲間内以外とは話もしないグループのようなものだ。それは、実質的に対外コミュニケーションの拒否であり、孤立である(そして他人の目を気にせず孤立し続けたいという欲求の受け皿としてのSNSであろう。多分)。
完全に孤立したそれを別に悪だとは思わない。本人達がそれでいいならば、外野が口を出す事では無いだろう。
しかし、その閉じた世界に満足はあっても発展は無い。どこかに風穴を開けない限り、そこから一歩も動いてはいないという事くらいは、頭に入れておくべきであろう。

という部分。この言葉、今ワシのメインサイト掲示板でウンスカ議論している内容を包括していると思う。
一部、ワシがメインサイトでレスした内容に被るんですが『他者との交流、そしてその意見を汲んで自分の思考をアウフヘーベンさせる非常に効率的な手段が《馴れ合い》である。なぜ、その手段を有効に使えない?』という思いを強くした。
所詮、自己は単一の自己でしかなく外部要因を拒絶した世界で一段高みに立とうとするのは至難の業であり、事実それを成しえたのは面壁十年した達磨大師であったり、ブッダであったり。つまりは聖人と呼ばれる人にのみ可能なことであって、あの孔子ですら顔回子淵、端木賜子貢、漆雕開らの弟子を取り、その弟子から学ぶことも多かった。

これが非常に良形な『馴れ合い』の姿であるようにも思う。弟子は師と寝食を共にし、その一挙手一投足から何かを学ぶ。師は弟子に自分の思いを語り、語る中から、或いは弟子の反駁に応える事によって自らの意思のステージをひとつ上げる事が適う。孔子が門弟たちと日夜酒を飲み、寝起きするだけであったとしたらどうであったかは想像に難くない。
然るに、今の『携帯三国志』を取り巻く状況はどうか?という話は今までに嫌というほどした。実際これ以上同じことを無駄に語るのはイヤだ。

これにおいては多少付けたしたい事があるが、今日は嫁に『日付が変わるまでに帰る』と約束した手前あんまりネカフェに入り浸る事も
叶わないので後日付記したいと思う。


因みに一つだけ吐露しておくと、ワシはひらめいたテーマに対してズラズラと言葉を並べる事は得意であるものの、既存のテーマに沿って述べる事が非常に不得手であった事に気づいた。三十路にして。これは偏に自分の話題の引き出しが少ない事の表れであるな。ここに気づいた事は有意義であったと共に、ワシの拙い『釣り』に敢えて乗って頂きエントリ立ててまで色々な教唆を賜ったrgyさんに心からお礼申し上げます。


今宵は此処まで。

(2005.2.8追記)あぁ。『絡み』という単語を上手くまぶして論じればもう少し楽だったんだよなぁ。上記凹みにボキャの無さも加わり2combo。