au三国志にも馬鹿が湧く

知らない事は罪ではない、と書いたがこうも情報高速化・多様化・簡便入手が当たり前の世の中、知ろうとしない事は罪なんでは、とは思う。上記の話でも、さも当たり前の様に話してはいるものの去年の今頃は知っていなかった事柄である。まさに『講釈師 見てきたように 物を言い』であるような。
昔、物の本で読んだ記憶があるのが『“人間は一つの生命体”論』。
何かっつうと《繁殖というものは、その個体が生き延びる為にする。あらゆる過酷な環境に耐性を持ち、獲得した知識を堆積し尚かつ永遠の寿命を持った生命体−が理想ではあるがそのような個体は太古に遡っても登場した記録は無い。人間は約60年〜70年の寿命を持ち、ある程度の繁殖能力を有する個体である。そして古来より人間が勝ち得た知識は遺跡や文献を介して、現在に伝えられている。個人の人間を一つの細胞と見なした場合、人間という種類の個体は遙か古来から繁殖というリニューアル行為を経て連綿と生き延びている、と言える》という話。
引用元も、内容の正確さも今では忘却の彼方。ワシの頭の中という、未整理のデータベースはクソの役にも立たんという証明なんですが。

閑話休題

上記の話を枕にするならば、知らずに生きるという行為には意味があるのか?と言う事。有用無用に関わらず、知る事は間違いなく人生を豊かにする。知ることなく生きる事、知ってはいるが後世に伝える手段を持たない者は大きな括りの中では、その存在を立証するものが無いという事。『三角関数覚えて何の役に立つんだ、ボクはもっと有益な情報で頭を満たしたい』とか言って大人ぶってる餓鬼共には、三角関数すら理解し切れない貴様の頭に有益な情報を流し込んでも、痩せ枯れた土壌では吸い込みゃしないだろうよ。大人に囲まれて判った気になってる内が華だと知るべき。
つーか理解出来てないんじゃねぇのか?(この辺は、auで1シナ中2回も謀反して2回とも光速滅亡した阿呆君主・成田武雷庵というクソ餓鬼をチクリとやってるつもりです。あ、名前出したらチクリ、では済まないのか。まぁいいや)。