大勢の批判的な意見を無視して、先般我が社の事業部内新年会が強行開催された。
しかし社内行事ごときで銀座アスター貸し切りで会費8,000円とは何事か。
松田聖子のディナーショーより4万円も安いから、と宣う価格設定者の頭蓋内部には腐海が広がっているに違いない。
頭に来たので、唯一景品が貰えるBINGO大会で人生初の1位を掠めてやったのであるが、中身はipod suffle。PC不所持の身で何をせよと。まったくもってふざけている。
職務上、こういった社内外問わず新年会・忘年会の類にはよく出席させられるのであるが、その際にテンプレでも存在するのだろうか?と思うほど頻繁に聴く台詞が「新年(or今年)は、顧客満足度ではなく顧客『感激度』を勝ちとろう!」というもの。
満足させるだけでは業界内での名声を勝ち得るにはほど遠く、満足を飛び越えて感激されるようなコンテンツを捻り出さなければ、他業者に大きく水を開けられない。という話なのだそうだ。
その内容でこちらに
『どうだね、君の会社の顧客感激度は?』
と話を振られ
『いやいや、弊社なんぞは最大の顧客である家族すら満足させられませんでして』
『ウエーッハッハ』
みたいな超つまんない会話でお茶を濁しながら帰路に着く。
帰宅して、景品のipodを手慰みにしながらふと思った。
このipodが席巻する音楽業界では、その音質の問題が話題になっているらしい。
往年は、音楽というものはレコードを用いて聴くのが一般的で、スピーカー、アンプを初めとする再生媒体や室内の再生環境を極限までに高めることで、その音質を最大限に引き出す事が『粋』だとされる時代であった。
しかしその録音媒体の主流がレコードからCD(コンパクトディスク)へ移行することにより、音質のデジタル化・音が持つ『やわらかさの喪失』なんかが叫ばれたりもした。
しかし、音楽業界はそのデジタル化によって魅力が最大限に発揮できるコンテンツを提供する事によって、従来の顧客層をより拡げることに成功する。そして近年、新たな『ipodの壁』が立ちふさがった。
音楽がより身近なものとなり『音楽の携行』への拍車が掛かる。その需要が産み出したのが『ipod』を初めとする携帯再生機器であるが、その携行性に必要不可欠なダウンサイジングを実現する手段として図られた『曲のMP3化』が、逆に音楽業界に大きな陰を落としているのだそうだ。
MP3とCD間での音質の差、というのは発売当時誰もが危惧したアキレス腱であったそうだが、しかし現実にはそれはなんの取り沙汰をされるでもなく『そういうものである』という認識の下に違和感なく拡散していった。
じゃあ、コンテンツの作り手が今まで腐心していた『音質』とはいったいなんだったのだろうか、という事なんである。
確かに、現在では音楽を聴く最もありふれた環境は『ipodとヘッドフォン(又はイヤフォン)』であり、過去に最適とされていた『スピーカーとアンプ』に比較すればその劣悪さは否めない。しかしそこに『音質への不満』といった意見は聞かれないのである。
何度かこのblogでも『多様化』という事を話題にしたんですが、この一連の話で思い当たったのが『人は、多様化を受け入れる事によって、感激に至るほどの感受性が鈍磨しているのではないか』ということ。
多くのものを並行して吸収する事が必要とされる社会にあっては、物事に対する姿勢は【ひろく、浅く】という風にならざるをえない。
感激に至るような、その商品なりコンテンツに対しての造詣というか、愛着というか、そういった感情を持ち合わせていては他事に障りが出る。
だから顧客は満足すれど感激はせず、不便は感じないが不満は感じるのではないだろうか。
これは、やはり作り手が常に先行して世の枠組みを形成した結果、受け手の主体性が失われたままにコンテンツを垂れ流したという側面もあるのだ、と思う。
しかし作り手が常に受け手との間にコンセンサスを確立しながら活動する、といった幸せな環境というのは夢のまた夢で現実は受け手の喜ぶ物を模索しながら、時には自演で分野の温度を上げたりしてニーズを『創り出す』のがごく当たり前だったりする。
そういう垣根を越えて、理屈やら理論やら屁理屈やらをブッ飛ばして売れてしまうものも中にはある。しかし、そういった商品は悉く模倣とコストダウンの波に呑まれて3年と保たない。

それでもなお『感激』という名の怪物に相対さなければならないのなら、我々作り手はみんなドンキホーテなんだろう。

そんな思いを致しながらハナクソをほじってたら、いつのまにか凄い量になっていて少し感激した。

今宵は此処まで。